死にたくても生きていていい
どん底の状態で、「死にたい」、いわゆる希死念慮が出てくる人というのは結構いると思います。
絶望していて、「もうこれ以上生きていたい」とは思えない状態ですよね。
「死にたい」という気持ちにどう対処すればいいのか、自分が落ち込んでいるときはもちろん、身近な人がそういう状態のときでも、何と声をかけていいかすらわからないかもしれません。
今回の記事では、以下のことについて書いています。
- 死にたいと言われたときどう答えるか?
- なぜそう思うのか
- 具体的にどうしたらいいのか
あくまで、私が今の時点で考えているものですし、この問題は個人差もありますので、万人に役立つとは思いませんが、ひとつの考えとして述べてみます。
- 今「死にたい」という気持ちを持っている
- 身近な人が「死にたい」と言っている
そういう状況の方に少しでも参考になれば幸いです。
もくじ
「死にたい」という人に対して何と答えるか?
まず、「死にたい」と言っている人に対して返す言葉として、大抵出てくるのが、
- 「死にたいなら死ねば」
- 「死んではいけない」「死ぬなんてとんでもない」
のいずれかではないでしょうか?
「死にたいなら死ねば」
これはさすがに論外かと思います。
というのも、「死にたい」という人は、何らかのかたちで心が傷ついている人。
そういう人に対して言うべき言葉ではないのは明らかではないでしょうか。

傷口に塩を塗るようなものだよね…
「退職したいならすれば?」「離婚したいならすれば?」なら、退職や離婚のあとに、ポジティブな可能性がゼロではないからそう言えます。
ですが、「死にたいなら死ねば」は、相手のすべての可能性がゼロになることをまったく考慮していない言い方です。
たしかに「死にたい死にたい」と騒いで注目を集めるタイプの人も稀にいますが(こういう人もまた大変な問題を抱えていることが多いです)、ほとんどの人はそうではないと思います。
「死にたい」と口にする人を、条件反射的に「甘えだ」と一刀両断するのは酷ではないでしょうか。
「死んではいけない」「死ぬなんてとんでもない」
一方、こちらの言い方も一歩間違うと、「そんな非常識なことをするな」「それは良くないことなんだ」という否定のニュアンスが入ってしまうのではないでしょうか?
そういうニュアンスで言ったつもりがなくても、相手はそうは受け取らないかもしれません。
そもそも「死にたい」と口にするということは、非常識であることなんてもう百も承知だと思います。
そんな常識なんか超える辛さ、なんですよね。
なぜかというと、「死にたい」という人は、当たり前ですが「死んでみたい」と言っているわけではありません。
もう少し正確に言うと「死んでしまいたいくらいつらい」と言っているんですよね。
特に、それを誰かに言うということは、そのつらさを自分ではもう抱えきれないということのあらわれでもあります。
私ならこう答える
では、「死にたい」と言われたときに、私ならなんと答えるか?というと…
相手が家族や友人・知人の場合
「私はあなたに死んでほしくない」と言うと思います。
死んだら、もう二度とその人と笑いながらお喋りもできません。
それは私が悲しい。
だから、死なないで。
ということですね。
これは、ちょっと自己中心的に思えるかもしれませんね。
でも、私は誰かが亡くなった時、本当にいつもそう思ってしまうんですよ。
お葬式で「もうこの人とお喋りできないんだな」と思うと、すごく悲しくなります

「亡くなった人は心のなかで生きている」という綺麗な言葉もありますけど、それは少し詭弁でもあります。
あくまで残された人の心を慰めるための方便です。
死んだらもう、その人にやさしくしたり、喜ばせたりすることはもう二度とできません。
その逆もそうです。
もちろん、この言い方が正解かどうかはわかりません。
というか、この問題に正解はないと思います。
あくまで、ケースバイケースだと思いますので…
ただし、この「死んでほしくない」というのは、自分と相手との間に親しさがあるからこそ、言える言葉でもあります。
親しい相手ではない場合
今、このブログをお読みただいている方は、もしかしたら「死にたい」という気持ちを抱えているのかもしれませんね。
でも、あなたと私とは直接知り合いではありませんし、ご相談者さんでもないので、「死にたい」と思うに至った事情もわかりません。
なので、私がここで「あなたに死んでほしくない」と呼びかけたところで、「どうせ何もしらないくせに」とか、何だかシラケた気持ちになるのではないでしょうか?
そういう方に、私から言えることは、「死ぬ必要はないですよ」ということです。

「必要がない」って結構ドライな言い方かもだけど、まあ言葉通りだね
もう少しソフトな言い方をすれば、「あなたは死ななくていい」です。
なぜ「あなたは死ななくていい」のか
環境的な問題の場合(人間関係や金銭問題など)
例えば、パワハラやいじめを原因とした自殺事件などがよく報道されています。
でも、被害者は、おそらくその職場や学校を辞めて、よく休養すれば、また元気になれる可能性があった人達なんです。
このような(人間関係を含む)環境によるどん底、あるいは金銭問題のような状況的ものは、ある意味自分の外側から来ている問題ですので、実は前提条件が変わってしまえば、死ぬ意味がなくなります。
つまり死ななくてよくなるんですね。
前提条件を変えてみる
例えば、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の結末を思い浮かべてみてください。
仮死状態になれる薬を利用して、ふたりで駆け落ちするはずが、計画がうまく伝わらず、互いに後追い自殺してしまう…という悲劇です。
その原因は、当時の人からすると運命のすれ違いかもしれませんが、現代の私達から見ると、単なる連絡ミス(連絡のすれ違い)でしかありません。
直接の死因は自殺でも、そこに至った原因は連絡ミスです。
前提条件を変えてみます。
もしもロミオとジュリエットが現代人なら…?
お互いにスマホを持っているはずなので、遠く離れていも連絡できます。
ちゃんと計画が伝わらなくてうっかり後追い自殺するなんて、もうあり得ない筋書きなんですね。
こうして、前提条件が変わると、二人はもう死ぬ必要すらなくなるわけです。
なので、死にたい時に、そもそもなぜ死にたいのかという前提条件が変えられないかどうかを考えてみる必要があります。

もし抑うつ状態などでそういうことも考えられない場合は、他人を頼る勇気を持つということも大事です
前提条件を変えるとは、
- ハラスメントやいじめ であれば 、会社や学校を辞める
- DVであれば、別居や離婚をする
- 金銭問題 であれば 、借金を肩代わりしてもらう、自己破産する…etc.
つまり、そのストレスの元にフォーカスするということです。
ストレスの元がなくなれば、当然、死ぬ必要はなくなりますよね。
だから、「そんなことで、あなたが死ななくていいんですよ」と言いたいわけです。
先が見えなくて苦しい場合
もちろん、もうすでに前提条件を変えたという人もいると思います。
例えば、パワハラで体調を崩し、会社を退職して療養中とかですね。
そういう状態の人が、先が見えないことに対する絶望を感じて「死にたい」と思うこともあるでしょう。
特に、あまりにもどん底で頭も体も動かない時期は、ちょっと変な言い方ですが、自殺する元気すらないということがあります。
でも、休養して多少頭も回るようになってくると、今度はネガティブな考えにがんじがらめになったりします。
で、身体も少し動くようになってくるから、極端な行動に出る…ということです。
でも、この状態の人にも、やはり「死ぬ必要なんてないですよ」と言いたいですね。
この場合はネガティブ思考が前提条件です。
ということは、今の状況のとらえ方を変えて前向きに行動していくことで、何とか乗り越えられる可能性が非常に高いんです。
実際、そういう状態から回復した人はたくさんいます。
例えば「確かにまだ先はみえないけど、この空白期間は自分の人生にとってどういう意味があるのか」「だったらどう過ごせばいいのか」を考えてみたり、心が折れないように(あるいは折れても)回復できるように自分を勇気づけていったりすることも必要だと思います。
もちろん、考え方を変えるという点では、カウンセラーの心理療法を受けるのもひとつの手段です。
考え方ひとつでどうにかなるんですから、「そんなことで死ななくていいんですよ」ということなんです。
メンタル疾患の場合
そして、希死念慮でおそらく大変なのは、メンタル疾患ではないかと思います。
難病の方の自殺ほう助の事件などもありましたが、「もう一生こんな痛みには耐えられない」とか、「死んだらラクになるんじゃないか」とか、そういう気持ちになると思います。
未来も見えず、「生きていても仕方ない」という気持ちに苛まれててしまいます。
またメンタル疾患の場合、症状によっては、頭では分かっていても発作的に…ということもあるかもしれません。
そういう場合はやはり医学の力が必要なので、病気自体を寛解させていくための治療は必須だと思います。
私は医師ではないので、この状態の人に対しては、具体的に「こうしてください」ということは言えませんが、ただやっぱり「死ぬ必要などない」と思っています。
他人に迷惑をかける自分…
長年重いメンタル疾患をお持ちの方から、「生きていても苦しいだけだし、他人にも迷惑をかけているから、生きていても仕方ない」というような言葉を聞きます。
でも、他人に迷惑をかけること自体は、人ひとりが死ぬ理由にはなりません。
誰かの手を借りながら生きていくことは何の問題もないですし、恥ずかしいことでもありません。
単純に自分でそういう自分を許す、受け入れるということができていないから、そういうふうに思ってしまうのです。
また、他人に「迷惑をかけている」というのは、実は自分の主観にすぎなかったりします。
もし本当に相手に「迷惑だから今すぐ死んでくれ」と言われているとか、常に命を狙われているという状態なら話は別ですが、そうだとしたら、それはそれで問題の焦点が少しずれています。
(その人が死ぬかどうか悩むべき問題ではないです)
いずれにしても自己受容できていなかったり、「迷惑をかけている」という思い込みだけで死ぬ必要はありませんよね。
もっといえば、自己受容ができていなくても自己肯定感が低くても、他人に迷惑をかけているとしても、「別にあなたはそんなことで死ななくていいんですよ」ということなんです。
病気はもう仕方なありませんので「いつも迷惑かけちゃってごめんね~☆」くらいに開き直っていたらいいんです。
もしそんな自分が許せないなら、毎回ちゃんとお礼を言うとか、自分にできることで何か相手にお返ししてあげるとか、そんなことで十分なんじゃないでしょうか。
生きていても苦しいだけ…
一方、「生きていても苦しいだけ」と言いますが、ではなぜ苦しいのでしょうか?
「いやいや病気だからだよ(怒)」と思うかもしれませんが、実は「病気=生きるのが苦しい」ではないんです。
まったく同じメンタル疾患を長年抱えたまま、「もう死にたい…」という人と、「まあそれなりに楽しく生きてま~す」みたいな人がいるのはなぜか?ということなんです。
もしかしたら、病気をきっかけに人生がうまくいかなくなって、
- 自分にはもう価値がない
- こんな自分は恥ずかしい
- 誰にも理解してもらえない
- 私の人生は何も手に入らない
と思っているとか、もしかしたら、原因は病気そのもののせいじゃなくて、そっちのほうかもしれません。
つまり、苦しみのきっかけは病気かもしれませんが、苦しみの正体は病気じゃないかも…ということです。
「病気だけど、ぼちぼち楽しく生きてま~す」という人は、病気の自分を「もう仕方ないしね」と受け入れている状態なんです。
そうでない人は今、絶望のほうにフォーカスしてしまっているのではないかと思います。
あなたは生きていていい
というわけで、「死にたい」という気持ちについて、私の思うところをあれこれ述べさせていただきました。
とても難しい問題です。
でも、「死にたい」という人には、「死んではいけないよ」ではなくて、私なら
「死んでほしくない」
「死ななくていいんだよ」
と言いますね。
要するに、
「生きていてほしい」
「生きていていいんだよ」
ということです。
この記事の詳細は、YouTube動画「「死にたい」と思う気持ち/あなたは死ななくていい」でもご覧いただけます。

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